リレー小説第9話

書いた人


第九話


 ――とんだ初デート(未遂)から1週間。

 ベッドから見える空の青色が、少し薄まってきた頃。ここん、と、軽いノックに続いて、

「こーんにーちはーっ。石本晃樹クン、いますかー?」

と、およそ病院に似合わない声と共に比奈乃が入ってくる。病室の入り口に患者名くらい書いてあると思うのだが、それを知ってか知らずか、律儀に名前を呼んで入ってくるのだから少々気恥ずかしい。

「いよっ、足、もう治った?」

 窓側の晃樹に歩み寄ると、目の前の椅子にトスン、と腰掛ける。

「はぁ? 1週間で治るわけないだろ、全治3ヶ月だってさ」

「ふふっ、冗談だって。『ハァ?』なんて言っておバカを見るみたいな顔しないでよー」

 時たま晃樹の方に笑顔を振りながらも、比奈乃は早速、手に持っていた少し大きめのトートバッグから何やら取り出そうとしている。

「あ、や、別にバカとかそういうつもりで言ったんじゃないけど……」

 そう言い繕う晃樹を流し目に見ていた比奈乃だったが、

「晃樹クンっ」

そう言うが早いか、トートバッグに突っ込んだ腕を、まるで掌底の寸止めでもされたのかと思うような動きで晃樹の目の前に付き出した。晃樹の視界が、比奈乃が鷲掴みにして付き出すなにかで遮られる。



「りんごっ!」



 反射的に仰け反った晃樹の目に再びそれが映るより前に、比奈乃の無邪気な声が耳を突いた――。





 晃樹は入院生活を強いられていた。ただ、「強いられる」と言っても、比奈乃は毎日見舞いに来てくれるし、ちょうど良い程度に冷房も効いているしで、満更でもない生活を送っていたりする。ちなみに、右足の骨折は全治3ヶ月らしい。



 比奈乃からあの男の話を聞いたときは、もう一回ハイキックでも食らわせに行ってやろうかと思うほど腹が立ったが、あいにく今はハイキックどころか歩くのもままならない。それに、自業自得とは言え、包帯グルグル巻きの顔で「なぁ、お前の彼女、絶対怒らせんなよ、絶対」なんて言われた日には、むしろ気の毒で罵倒すらする気にはなれなかった。

 比奈乃に蹴り倒された彼も、晃樹と同じ病院に搬送されたのだった。入院した次の日に偶然廊下で会い、そこで出た第一声がアレである。彼の方はと言えば、比奈乃の黄金の左足(本人から、左利きなのだと「武勇伝」のついでに聞かされた)で鼻骨骨折、及び転倒時の後頭部強打による頭蓋骨骨折……、とまではいかなかったようで、どちらも打撲で済んだらしい。まあ、当然というか、搬送の際は鼻血ダラダラ状態だったそうだが。何にせよ、比奈乃が何もされなかったので許せることではある。



 搬送と言えば、一発K.O.で勝利の余韻に酔いしれる比奈乃が、晃樹の悲惨な姿を見たときの慌てっぷりが意外だった。満面の笑顔から一転、まるで自分が晃樹をそんな目に遭わせたのだと言わんばかりにオロオロとし始める始末。「どうしたの?」に始まり、「大丈夫?」だの「死なないで」だの、しまいには「あ、そうだ、あんパン食べる?」って……。事情を知らない晃樹は心中でそのまま同じ言葉を、比奈乃の後ろでひっくり返っている顔面血まみれの彼に、バケツリレーの如く投げかけているのだった。「あんパン」はよく分からないので、とりあえず留め置きしたままだけれども。

 結局比奈乃は、秋岡さんのポジションを有無を言わせず乗っ取り、付き添いとして病院に行くことになり、秋岡さんとはそこで別れた。相変わらずの比奈乃の暴走っぷりに苦笑いというか、むしろ呆れ顔だったが、ふと比奈乃を見る目にそれ以外の色――なにか言いたげな、寂しそうな感じ――が映っている気がした。



 それと、電車脱線の原因なのだが、今はまだ調査中だと、事故の翌日見舞いに来た鉄道会社の人が言っていた。あの付近は最近カラスが増えているそうで、カラスによる置き石が原因の可能性も考えられないことはないが、カラスの動かせる程度の石では脱線はほぼあり得ないだろう、とも付け加えていた。確かに、たかがカラスの不埒な所行で電車をひっくり返されてはたまった物ではないよな、とガッチリ固定されている右足を眺めながら晃樹は思った。





「――みてみて、ほらほらっ」



 赤々としたリンゴを晃樹に突きつけた後、比奈乃は続けて果物ナイフを取り出し、丸かじりが良かったかな、なんて笑いながら皮を剥き始めていた。それから、一転して黙り込み、皮剥きへと集中してしまったため、晃樹は話し掛けるのも悪いと思い、暫しの沈黙が続いていた。そこに比奈乃が、これまた無邪気な声ではしゃぐものだから、窓の外に目をやっていた晃樹は何ごとかと比奈乃側に首を反転させる。

 そこには、剥いたリンゴの皮の上と中ほどを両手で摘み、びろーんと垂らしている比奈乃がいた。比奈乃の身長は晃樹より低いとは言え、皮は長く、そして細い。

「器用でしょ?」

と言い終わらないうちに皮は下半分が切れ、床に落ちる。

「あ、もー、晃樹クンよそ見してるからー」

「ちゃんと見たって。なんか黙ってたの、それに集中してたんだ」

「うん、何となく剥いてるうちに、なんかちょっと、えへへ」

 リンゴの中身はと言えば、比奈乃が持ってきたのだろうか、ちょっとした小皿に丸々どん、と置いてある。

「今切るから、待って。あ、あたしも食べて良い?」

「良いよ、比奈乃が持ってきてくれたんだし。」

「じゃ半分こ、って言いたいとこだけど、晃樹クン栄養採らないといけないし。うーん、……八分の一分こしよか?」

「はちぶんのいちぶんこ? って、言うのか?」

「さぁ」

「なんだよそれ」

 あはは、と二人して笑う。リンゴを食べながら、本当は青リンゴを買うつもりだったが、時期的な関係で店に置いてなかった、だとか、今度はウサギさん十六個セット作ってあげる、などといった、そんな他愛のない話をして過ごした。

 そんな、比奈乃との日々の言葉のやりとりが楽しかった。たまに、「病院内では静粛にっ」なんておばさん看護師に怒られたりもしたけれど。

 そう言えば、入院中に比奈乃と一つ約束をした。「退院したら、今度こそ初デートしよう」って。「今度は遅刻しないように、ネッ?」とも言っていた。残念ながら、遅刻のことは忘れてないみたいだ……。





――そしてやってきた、退院の日。

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